小説 多田先生反省記

13.入学試験

 定期試験が終われば程無く入学試験となる。今度ばかりは些かのミスも許されないが、年嵩の教授が主任監督として目を光らせることになっているので気持はいくらか安らかだった。所定の問題と解答用紙を配り終えて、志願票の写真と受験生の顔を見比べてしまえば後は適当に教室をぐるぐると回りながら康子への手紙の文面などを考えたりして退屈な時間を潰しているので退屈しないで済む。昼は大学の方で仕出しの弁当を手配してくれるお蔭で昼食代が浮く勘定で有難い。その弁当を研究室で食べて試験監督者の控室となっている会議室に戻ってくると、私と同じく昨年の4月に着任した体育担当の高来が声をかけてきた。

「多田先生、ワタシは入試が終わったら国語の採点ばすることになっとりますばってん、先生はもう、どこかの班に決まりよりますか?」

「いえ。入試が終わったら直ぐ採点があるとは聞いてましたけど、僕にはまだお達しがないんです」

「そりゃ、よかった。他の班からもう引き抜きのあったんやなかろうか、思ぉとりました。先生も一緒に国語やりませんか?国語の班は採点の担当者の数がまだ足らんとです。国語でヨカですね」

大学の方で適当に人選をして、それぞれの班に配置するものだと思い込んでいたが、そうではないようだ。高来は早速、国語担当の小田部助教授に私の了解を伝えた。

「多田先生、国語の採点お引き受け下さりまして有難うございます。先生にはお願いしようと思っていたんですけど、このところすっかり試験の方に気を取られていまして…。でも、お陰様で人数が揃いそうです」小田部が駆け寄ってきて嬉しそうにそう云った。

すぐさま国語の総責任者である箱崎教授にも伝えられた。箱崎も同じ教養部の会議でちょくちょく顔を合わしているメンバーだ。譜面の五線紙のような髪を櫛で左から右に丁寧に撫で付けながら、にこにこと軽く会釈を送ってきた。高来は控室に戻ってきた商学部の塔原教授にも伝えた。

「多田さんが国語に入るとや?そげんや!お前は野球しかでけん思ぉとったばってん、さすがにスカウト慣れしとんな」塔原は大きな会議室中に響き渡るような声でそう云うと、私の方に歩み寄って「多田シェンシェ、よろしゅうにな!」と親しげに声をかけてきた。

「こちらこそ、よろしくお願いします。なにせ初めてですし、国語なんて僕の専門外のことですので、きちんと採点が出来るかどうか不安ですけど…」

「多田シェンシェ、そげん心配せんでヨカ。このアホの高来も国語の採点ばするとですけん。おい、高来、お前こそしっかりせんといかんぜ、ワッハッハ」塔原の地声は大きい。「いけん、こげんしとられん。もう次の試験始まりよるばい。俺の試験室は一番遠かけん…」そう云うなり試験問題を抱えて出て行った。

その日の試験が全て終わったところで、私は中川に国語の採点をすることになったと告げた。中川は社会科の採点に当たることになっていた。

「国語の班だったら大勢いるし、いろんな人と親しくなれるチャンスだよ」中川は昼休みの塔原の大声は聞いていなかったようだ。「あ、高来さん。多田君をスカウトしたんだって?」高来を見かけた中川がそう云った。

「はい、そうなんです。なんせ、国語は全部の受験生が受けよりますけん。塔原先生に発破掛けられよったとです。採点の引き受けてくれよう先生ば捕まえてこいって!」

「そうだよね、毎年、国語の班は人数集めが大変なんだ。でも楽しみも多いよ」にやりとして中川がそう云ったのだが、私にはその意味が掴めかねた。

「多田君もお酒が強いよ」中川が高来に耳打ちした。

「そげんですか?多田先生、今夜あたり早速一杯やりましょうか?中川先生もどげんですか?」

「いや、今夜は失敬する」

私が酒に誘われて断ろう筈はない。高来の馴染みのスナックは歩いて行くには少しばかり距離があるということでタクシーに乗った。

「鼻糞んごと近(ちこ)ぉしてすまんばってん、トリカイ病院まで連れてっちゃやらんね」高来が行く先を運転手に告げた。スナックは4階建のその大きな病院のすぐ近くにあるようだ。

「随分でかい動物病院ですね」鳥飼という看板を見た私は感心してそう云った。

「これは動物の病院やのうて、人間を扱(あつこ)ぉとります」

鳥飼とはその辺りの地名だった。

「こちら、同僚の多田先生!」おしぼりを渡してくれた若作りのママさんに紹介してくれた。

「ようお出でいただきまして…。いつも主人がお世話になっております」

高来はニヤニヤしている。初めての客に対して常連客をこう名指しするのがスナックのママさんの常套の挨拶だ。私の行きつけのスナックでは言われたことはない。そこのママさんはかなりの年増なので言いにくいのだろう。あるいは、自分の器量に照らしてそうした挨拶は憚っているのかも知れない。

「先生はいつもここで飲んでるんですか?」

「ええ、そうですね。大学の近くだとうちの学生がうようよおりますよって」

「そうですね、先生は体育の授業で殆どの学生を担当しているから顔がよく知られてますもんね」

「知り合いに紹介されたとです。そんなこんなで、ここに来ることが多かです」

「先生は東京の体育大学を終えたんでしたよね。お話し振りからすると出身は矢張り九州なんですか?」

「ええ、そうです。北九州の高校ば出ました。高倉建は先輩です」

「えっ、そうなんですか!」気持ちが奮い立って思わず叫んだ。「ボ、ボク、健さんの大ファンなんです。この間は藤純子の緋牡丹博徒を観てきました」

「ヤクザ映画ば好いとぉようには見えんですけど…」

「いや、大好きなんです」ハイボールをぐっと呑んで続けた。「東映のヤクザ映画は滅びの美学ですよ」私は俄然気焔をあげることになった。「健さんの網走番外地、唐獅子牡丹、藤純子の緋牡丹博徒、鶴田浩二の傷だらけの人生、この映画の根底に描き出されている人物像はそれぞれ違ってますけど、底流にあるのは義理と人情の世界です」高来はニヤニヤしながら聞いている。私はますます饒舌になってきた。「義理に生きる。そこに人情が入り込む。でも、やっぱり義理の為に全てを断ち切らなくちゃならない。そこに人間の哀しみがあると思うんです。渡世の義理に死ぬこともあるわけですけど、道理がなくちゃいけません」私は授業の中で披瀝している一遍をここでも繰り返した。「ここに人間的なというか、日本人としての人間観があります」

「さすが文学ばやっとんしゃる先生ですね。言う事が違ぉとりますな」

「いや、僕は語学の方なんですけどね…。義理と人情の世界こそ我々日本人の故郷でしょ。そこに郷愁と哀愁を感じるんですよ。誰だって」

「やけにヤクザの世界を褒めますね」高来も満更ではないという顔をしながらも茶茶を入れてきた。

「いえね、ヤクザ礼賛という訳じゃないんです。僕たち日本人が忘れてしまっている心の故郷を求めているんです。虚ということを知りながらその中に己を見つけ出して、ささやかな自己満足を感じるんです」ハイボールを何杯も飲みながら私は自分のことばに酔いしれていた。

「ワタシもよう観よりますけど、座頭市が一番好きですね。あれはヨカです」

「勝新太郎のですね。僕は観たことないんです」

「一度観んしゃったらヨカですよ」

これが大学の先生の遣り取りかとママさんは大いに呆れたのだろうが、そんな表情は?(おくび)にも出さずに、せっせとハイボールを作っている。ヤクザ映画の話にのめり込んで、一頻り呑んだら腹が減ってきた。高来は河岸を変えて、肉を食いに行こうと誘ってくれた。

「お愛想して下さい」

ママさんは怪訝な面持ちで高来に目を送った。

「先生、ここはヨカけん。そげなことしよっては、いかんです」

「いや、そうは言っておられん」

「ここはワタシの店ですけん。ワタシの」

「何ですか、そのタワシってぇのは」

「タワシじゃなくて、ワタシ」

又もやタクシーに乗って中州にあるステーキハウスに行った。高来はここでも常連のようだ。適当にビールを呑んでいるうちに目の前のカウンターの鉄板に厚さは3センチもあろうかというステーキが出された。マスターが鮮やかな手捌きで塩とコショーを振りかけている。頃合いを見計らってブランデーをその肉に降り注いで、炎の帆柱が収まった頃合いに切り捌いてくれた。

「こりゃ、旨い肉ですね。よくお出でになるんですか、このお店も」

「たまに苅田先生に連れてきて貰いよります」

「ああ、苅田先生も高来先生と同じ体育大でしたね。ラグビー部の部長をなされてるとか」

「そうです、あん先生はワタシの隣町の出身です」

「そうですか。あの勢いのいい塔原先生とも親しいようですね」

「塔原先生は野球部の部長ばしよります。ワタシは監督しとりますんで、よう一緒に呑むとです」

「そうでしたか。高来先生は今、お住まいは?」

「大学の体育館の裏のアパートで独り住まいしよります」

「先生はアパート住まいですか。僕は自炊するのが嫌だったんで下宿にしたんですが、先生のアパートとは近いみたいですね。それにしても、やっぱり独り身は侘しいですね」

高来とは昨年の春に教養部の歓迎会の酒席で座を共にしたことはあったが、こうして二人でお酒を呑んだことはなかった。それでも私は古くからの付き合いをしてきたような心持になって、見合いをしたことや結婚しようと思っていることなどをへらへらと喋り出した。

「そげんですな。そやったら、下宿、出ないけんですな」

この段になって、私は住まいの事までは考えていなかったことに初めて気が付いた。高来は公団住宅の申し込みをするとのことで、入試の採点が終わったら一緒に申込みに行こうということに話が進んだ。ステーキも高来にご馳走になり、更に西新の私の行きつけのスナックで夜更けまで呑み続けた私たちはあっちへよろよろ、こっちへよろよろと危なげな足取りで家路を辿った。

神崎は佐賀に帰っている。康子からの速達が届いていた。私はちらちらと焦点の定まらぬ目で何度も読み返した。入試の仕事がひと段落したあたりに福岡まで会いに来てくれるようだ。私はその手紙を慈しむようにして抱きながら冷たい布団にもぐりこんだ。

3日間に及んだ入学試験は何事もなく済んで、その翌日から引き続き採点となった。入学試験の折には監督者の控室となっていた会議室でそれぞれが担当の箇所を採点する。初めに採点箇所に関する模範解答を手渡され、それと首っ引きになりながら数千枚の答案を採点してゆく。初めて入試問題の採点に携わる私や高来は簡単な記号を照合するだけの採点かと考えていたが、私には文章問題の解答欄も割り当てられていた。模範解答に沿いながらも受験生の解釈の度合いに応じて点数を加減しなくてはならない。小田部からいきなり点数を付けることのないようと念を押された。数十枚の答案を点検した上で妥当な点数を按配しなくてはならない。同じ箇所を別の教員が再検する。斜め向かいに私が採点した箇所を再検するキリスト教学が専門の春日教授が座っていた。採点にあたっては昼飯ばかりか夕食も供され、至れり尽くせりである。それでも同じ解答ばかり見ているといつしか飽きてくる。適当なところで会議室の端の方に置いてあるお茶を飲んだり、お菓子を撮んだりして疲れを癒した。採点は朝の9時からだ。もちろん途中で研究室に行ったりして、ゆっくり体を休めても構わない。夕食も済ませてそろそろ疲れた上に飽きてきた時分になって塔原が突拍子もなく大きな声を出した。

「ああ、疲れたばい。もう今日はこれで仕舞いにせないかん。高来、お前はどげんや?」

「ワタシも疲れました」

「そげんやろね。お前にはこげん頭ば使わんならん仕事は辛かろうや」冷やかし半分にそう云いながら塔原は高来の模範解答を覗き込んだ。「ありゃ、そげんこともなかね。じぇんぶ記号ばっかりやないか、お前んとこは!ケ、コ、ア、タ…なんて見とればヨカもんな」

「いや、そうでもなかです。第3問と4問の答えが混じりよったりするけん、これでも、結構気ば遣わなならんとです」

「おい、苅田さん!あんたはどげんや?そろそろ区切りばつけて、終わりにせんか?」今度は同じく国語の採点をしている苅田に鉾先を向けた。

「ワシも疲れた。また明日もあるけん、今日んところはこれで仕舞いにしとこかいね」

「飲みに行くばい。どげんや?」ほかの教員が一斉に赤鉛筆を置いて、塔原の顔を見つめた。

「多田シェンシェイ、あんたもどげんや?こん間は高来と一緒に飲みよった、て聞いとるばい」

「はい、有難うございます。僕もすぐ終わりにします」

「塔原先生、ちーと待っとって貰えまへんやろか?ワテもじきに終わらせますよって」商学部の太宰だった。太宰は塔原からスカウトされていた。

塔原に急かされて私たちは会議室を後にした。どこに行こうかとの相談になって、取り敢えず大学に近い私の馴染みのスナックに行くことで話が纏まった。今夜は美人のホステスも既に来ていた。カウンターに坐るなり苅田が云った。

「あんた、なかなかの別嬪さんやね、いやほんなこつ。名前なんちゅうと?」

「洋子です、よろしくお願いします」

「そうね。洋子ちゃんね。ワシな、多田先生の同僚で苅田や。よう覚えっとてな!」

「こら、あんた!飲みもせんうちから若い姉ちゃんば口説きよったらいかんぜ」

塔原の一言で先ずはビールで一日の疲れを吹き飛ばそうということなった。

「多田シェンセイ、あんた城南さ来てそろそろ一年になろうや?」

「はい、そうなります」

「あんたのシェンパイの中川さんな、あん人は赴任して最初な、宿の見つからんゆうて僕が寮長ばしよる学生寮に暫くおったんよ」

「そうでしたか」

「そやったね。塔原先生んとこに暫くおんしゃったね、あん人」

「なんせ学修院ば出よるけん、畏れ多してな、碌に口も利かんかったばってん、いつか、夜になってくさ、玄関でばったり会(お)ぉたんよ。そげんしたら酒ん匂いばプンプンさせよったと。あれからやな、よう一緒に飲みよぉとは!」

「そげんやね。ワシも同じ教養部ばってん、会議で顔ば会わせるだけで今んこつ付きおぉとらんかった。それがくさ、去年の秋ごろ城南でも学生運動のきつうなってきよった時な、中川さんは学生委員じゃろうが…」

確かに東京ほどの凄まじさはなかったものの、一時期、学内に立て看板が林立していた。

「あん人、あん頃は学長室におって学長の護衛ばしよったけんね。ワシ、陣中見舞いに行ったんよ。したらな、中川さん、竹刀ば持って学長室で仁王立しとったばい。あれから学長は中川さんにぞっこんやもんね。あん人はワシらとおんなじ本物の右翼ばい。あの頃からやね、学長と飲みよう時は中川さんも一緒になったんは」

「あのころは荒れてましたね。僕のクラスにもヘルメット被った学生が入り込んで、何で授業をやるんだ?なんてアジられたんですけど、あの時、中川先生が来て学生を摘み出してくれました」

「多田先生、あんたも学修院じゃろ?」

「これ、そこの洋子ちゃんゆうたかいね、あんた、世が世ならこんシェンシェイとはこげんして酒なんぞ飲んどられんとぜ」塔原が妙なことを云いだした。

「多田先生、ほんなこつ?嘘やろうもん」

「ま、洋子ちゃん、ヨカ!そげんにしても太宰、碌に酒ん呑めんお前まで、ようのこのこ付いて来たな」

「のこのこ付いて来たなんて!よ、言わんわ。ワテ、まるっきし犬コロやないですかいな。たまには先生らと一緒に呑みたいよってに…」

「太宰先生、商学部の一年の宗像っていう学生ご存知ですか?」

「ムナカタ?」天井を見上げて考えている。「ああ、あの、とっちゃん坊やごたる学生でんな。なんでまた多田先生が?」

「大学院に行きたいって言ってまして、僕のところにドイツ語の個人授業に来てるんです」

「なんや、あんた家庭教師もしよっとか?」苅田が口を挟んだ。

「いや、ドイツ語の方は碌に勉強してないんですけど、土曜日に下宿に来て、いろんな面白い話をしてくれるんです」

「あの学生な、大学院は無理でっせ。ええ加減に先生から引導渡しといてぇな」

「高来、お前きょうはえらい大人しかね。また二日酔いになっとぉとか?」

「なんも、そげんことなかですよ。ワタシの入りよる隙間のなかですもん」

「そ〜ね。ま、よか。呑めや!」

「塔原先生、こいつには呑め、云わんかって黙ってても、いつだってきっちり呑みよりますばい」

 私と高来はハイボール、日本酒党の塔原は酒そして苅田と太宰はビールというようにてんでに呑んで、その後、太宰は久留米へと帰って行った。私たちは当然ながら梯子酒となって、さらに中州へとタクシーを走らせた。

「いや、多田さん、洋子ちゃんは別嬪やばってん、あんママはどげんにもならんね!」タクシーに乗るなり苅田が云った。

「なんや、あんたそげん、あん姉ちゃん、気に入ったとか?」と塔原。

「ワシはな、男でん女でん、不細工なんと左翼は好いとらんもん。あん店はあの姉ちゃんで持っとうばい。多田先生、あんたあん姉ちゃんば口説こぉ思いよっと?」

「まさか、そんな!」

「多田先生は結婚相手のおんなさっとですよ」前の座席に座っている高来が身を捩じらせて云った。

梯子の2軒目は軍国酒場だった。幾つかの軍歌の曲に併せてマイク片手に蛮声を上げ、最後にはそれぞれ軍服に身を包んでポラロイドカメラに納まった。勿論、塔原と苅田は上級士官の制服だったが、私と高来に宛がわれたのは二等兵と上等兵の服だった。高来は体育会系らしく、私に上等兵の制服を渡してくれた。引き続き先日のステーキハウスに流れて行ってその晩の締め括りとなった。

翌日も採点だ。昼頃まで昨晩の酒の匂いが其処彼処に漂っていた。夕方頃には再検に掛かり始めた者もいる。向かい側に座っている春日も再検となっているようだった。その春日が答案を見ながら「うーん」と唸った。

「多田先生、ちょっと」いきなり私を呼び寄せた。「これでいいのでしょうか?」

解釈をめぐる見解の相違のような気がするが、不慣れな私には反論するだけの気概は備わっていない。春日の意見に柔順に従った。

「これでいいでしょう!何で減点しなくちゃいけないんですか?」再検にあたっている数学が専門の平丘教授がその箇所を採点した経済学部の香椎教授に文句をつけている。

「いえ、文部省のお達しでは漢字の木編の縦のこの棒は撥ねてはいけないことになってます」

「幾何学の観点から申しますとね、この縦線は横のこの点に筆が行く線です。その線上に点がある訳ですから、当然、この縦線は撥ねることになるんです!」

「書き順からいえばそうなりますけど、ここは一度止めなくていけないところなんです」

「受験生からすれば、イチイチそんなことに拘ってはいられやしませんよ。なんせ時間に追われているんですから」

「時間が無くても字は正確に書かなくてはいけないんです」

「漢字の撥ね一つで減点されたひにゃ敵いませんよ」

「そうは言ってもですね、これは入学試験ですから厳格にしなくてはいけないんです。そうですよね、小田部先生」

いつまでも続いていた。国語の総責任者となっている箱崎の分野は古典文学ということもあってか、現代文については全て小田部に任せているようで、この論争を冷ややかに聞いていた。

「ええ、一応、文部省からはそう言われていますけど…」小田部はこの論争には終止符を打ちたいようだった。「最終的には私の方で判断しますので…」

またもや春日が唸り始めた。私も今少しで再検にかかれそうだったが、その春日の様子には冷やりとさせられる。やや暫く間をおいてから私を呼び寄せた。今度は平岡を真似て相手の言い分に逆らってみようかと心を決してずかずかと歩いて行った。だが、今度は記号を書き入れる箇所で、その記号の順番を取り違えただけの単純な私の採点ミスだった。いちいち呼びつける必要もない。春日が勝手に直しておけばよい筈だ。そのための再検なのではないか?なんともいやらしい爺とは思うが、私のミスだから仕方ない。幾度となく春日は唸っては私を呼び寄せる。解釈問題に頭を廻らせて、次に記号の解答欄に進むと、頭の中は混乱して解答欄の記号の順番に関する記憶が薄れてしまう。記号の解答欄もそれぞれ点数の配分が異なっているので、足し算も危うくなってきている。

「あの爺さん、えらい、ややこしいな!いちいちおまはんを呼びつけんかてよろしいのにな。ホンマ災難やな」気晴らしにお茶を飲んでいる私の耳元で太宰がさも気の毒そうに囁いた。

「あの禿げ!」私は心の中で呟いて憂さを晴らすしかなかった。

そのうちに私も再検の作業に取り掛かり出したのだが、本来の再検のほかにもこれまで採点してきた私の箇所を同時に再検し始めた。4日目になると採点の教員の数はどんどん少なくなっているのに私の作業は事の外遅れていた。

入試に纏わるすべての仕事から解放されたその晩は強い風が吹き荒れていた。下宿の窓に物凄い勢いで風が吹き付けている。いつしか雪が降ってきた。暗闇に雪の切片が右に左に吹き散らされて、6畳間の窓にビシビシと音をたててぶつかってくる。窓の桟が瞬く間に白くなった。石油ストーブは赤赤と燃えているというのに吹き込む隙間風の所為か部屋はいつまでたっても暖まらない。康子からの速達が一筋の光明のように机の上に載っている。



トップページへ戻る